【映画】『今日、恋をはじめます。』

[★★☆☆☆]
後悔なんて、あるわけない

あらすじ:真面目が取り柄で、結婚するまで貞操を守ろうという信念を抱いだ古風な女子高生・日比野つばき(武井咲)。高校の入学式当日、成績トップで学校一のイケメン・椿京汰(松坂桃李)と隣の席になるが、クラスメイトの前でファーストキスを奪われてしまう。突然のことに怒り、反発するつばきだったが、涼太の思いがけない一面をみて次第にひかれていく。

監督:古澤健
企画プロデュース:平野隆 森川真行
エグゼクティブプロデューサー:田代秀樹
プロデューサー:武田吉
キャスト:武井咲 松坂桃李 木村文乃 青柳翔 山崎賢人
製作年:2012年
製作国:日本
配給:東宝
上映時間:121分
映倫区分:G

感想:


“娘のするあらゆる愚行のうちで、初恋がつねに最大の愚行である。”

この言葉は、ドイツの劇作家アウグスト・フォン・コッツェブーの「断片」の一節である。全15巻の少女漫画を原作に持つこの映画は、まさにこの「初恋」という愚行をありのまま描いたものだ。

この作品の主人公である日比野つばき(武井咲)は、メガネでおさげ髪の地味で真面目な少女であり、長女としての役割を果たし親からの期待に応えようと勉強にいそしんでいる。そんな彼女が高校に入学し、偶然席が隣になった同じ“ツバキ”を苗字に持つ椿京汰(松坂桃李)にちょっかいをかけられた時から、物語は始まる。椿は見た目からしてチャラく、女子からも男子からも一目置かれるようなクラスの中心的存在である。つばきはそんな椿(ややこしいので以下、京汰)を苦手に思うのだが、なぜだか京汰はそんなつばきを気に入ってしまう。つばきはつばきで、京汰の意外な一面を知るにつれ、だんだん心が惹かれていく…

…と、ここまで聞いておわかりの通り、この作品は誰もが思う「少女漫画的記号」ですべてが構成されている。姉であるつばきとは対照的で明るくオシャレで奔放な妹さくら(新川優愛)も、京汰の親友でお調子者の西希(山崎賢人)も、すべてどこかの少女漫画で見たことがあるようなキャラクターであり、“真面目そのもので地味な少女が、少し粗暴(だけど夢があって実は一途)な少年に惹かれていき、自分自身の魅力を開花していく”という物語自体も、あまりに定型化されたものだ。

ではこの作品には新たな視点はないのだろうか?

つばきはなかば強制的にクラスの委員長をやらされる羽目になるのだが、つばきに反感を持つ女子グループらは言うことを聞こうとしない。おかげで文化祭の催し物も決まらず、つばきは窮地に陥ってしまう。そんな時、つばきを救ったのは京汰だった。

「この場は俺がなんとかしてやるから、その代わりに俺とデートしろ」

つばきは考える余裕もなく、この条件を飲んでしまう。

この場面で私はあるアニメ作品を思い出した。
その作品とは、「魔法少女まどかマギカ」である。

ご存知の方も多いだろうが、「魔法少女まどかマギカ」は2011年に放映されたテレビアニメーションであり、放映後の反響から、劇場版アニメになるまで社会現象化している作品だ。この作品のあらすじを簡潔にいうと、中学生である鹿目まどかの前にキュゥべえと呼ばれる謎の生物が現れ、どんな願いも叶えられるという魔法少女になる契約をまどかに迫るのだが、それは同時に、“魔女”と呼ばれる怪物と戦わなければならない義務も存在しており、彼女はその因果に巻き込まれていくという物語だ。

「僕と契約して、魔法少女になってよ!」というキュゥべえのフレーズは一度はどこかで聞いたことがあるだろう。このセリフが、まさに上述の京汰のセリフとシンクロしたのだ。

つばきは「学級委員長として文化祭を成功させるために、京汰とデートをする」という“契約”を結ぶ。

もちろん、「魔法少女まどかマギカ」を想起したのは上述の場面があったからだけではない。付き合うことになった二人は、だがふとしたきっかけで仲違いし、つばきは自らの夢である美容師への道を歩み始める。その段においても、つばきは美容院で働かせてもらうために、美容院店長から店内スチール写真のモデルとして撮影されることを求められ、これを許諾するのだ。

つばきは「夢である美容院で働くために、スチール写真を撮られる」という“契約”を結ぶ。

ここからわかるのは、彼女は「何かを得るためには、何かを失わなければならない。」という哲学を持って生きているということだ。それは両親の期待を背負う長女としての責任感から生まれたものかもしれない。そして、真面目な彼女だからこそ、契約の代償として京汰と付き合うことになった事実を観客は思い出すだろう。

女性関係に奔放で傲慢な京汰は、いくら両親の離婚という原因があるとはいえ、客観的にみれば、つばきに相応しい男ではない。それでもなお、なぜつばきは京汰に惹かれたのか。それはひとえに、「初恋とは純粋であらなければならない」という、つばきの強迫観念に似た思いがさせたのである。京汰を一度好きになった以上、生真面目な彼女はその生真面目さゆえに、彼を愛し続けざるを得ない。だからこそ、付き合う前の段階では、つばきは身体の関係を迫る京汰を断固として拒否したのだ。

そして、物語が進むにつれ、私たちはうすうす気づいていく。純粋なる愛を求めるがゆえに、つばきが失わなければならないものを。

つばきが失わなければならなかったもの、最後に彼女が京汰と交わさなければならなかった“契約”とは何か。それは、永遠の愛を得るためにする身体の契りだ。彼女の持つ「代償」の思想からいって、彼女は彼の愛を確かめるためには身体を許さざるを得ない。つばきは、自らがもっとも大切にしている処女を捧げることでしか、京汰から永遠の愛を引き出すことができないのだ。

だが、我々は知っている。処女の代償は永遠の愛ではないことを。だからこそ、一夜を過ごした後、朝日を浴びる彼女らの笑顔が作中では完全にポジティブに描かれるにも関わらず、どこか寒々しさを感じさせるのだ。

この作品で描かれているのは、この世界に普遍的に存在する処女喪失システムである。彼女らは自らの処女と引き換えに、願いを叶えていく。しかし、「魔法少女まどかマギカ」における魔法少女たちがそうであったように、希望は時に搾取され、利用されることもありうるのだ。つばきと京汰の間にあるものが永遠の愛だと楽観的に信じる人はいないだろう。だが、それがたとえ儚く散る恋だとしても、一向に構わないのだ。なぜなら、初恋とはつねに最大の愚行なのだから。

私がただ一つ願うことは、この作品を見た少女たちが、決して魔女化することなく、いつまでも魔法処女のまま居続けて欲しいということだけだ。