【映画】『チェンジリング』

[★★★★★]
信。

あらすじ:
1928年のロサンゼルスを舞台に、誘拐された息子の生還を祈る母親(アンジェリーナ・ジョリー)の闘いを描くクリント・イーストウッド監督によるサスペンスドラマ。息子は無事に警察に保護されるが、実の子でないと疑念を抱いた母親が、腐敗した警察に頼らずに自ら息子の行方を捜して行動を起こし、同時に市長や警察機構を告発する。共演にジョン・マルコビッチ。(eiga.comより)

映画情報:
原題:Changeling
監督・製作・音楽:クリント・イーストウッド
脚本:J・マイケル・ストラジンスキー
製作総指揮:ティム・ムーア、ジム・ウィテカー
製作:ブライアン・グレイザーロン・ハワード、ロバート・ローレンツ
撮影:トム・スターン
美術:ジェームズ・J・ムラカミ
製作国:2008年アメリカ映画
上映時間:2時間22分
配給:東宝東和
キャスト:アンジェリーナ・ジョリー、ガトリン・グリフィス、ジョン・マルコビッチコルム・フィオール、デボン・コンティ、ジェフリー・ドノバン、マイケル・ケリー、ジェイソン・バトラー・ハーナー、エイミー・ライアン、ジェフリー・ピアソン、エディ・オルダーソン

感想:

「これは実話である。」

この文言が冒頭になければ、作品内で描かれる出来事はあまりに荒唐無稽であり、リアリティを感じることができなかっただろう。それぐらい衝撃的な物語が展開される。1928年、クリスティン(アンジェリーナ・ジョリー)と息子のウォルター(ガトリン・グリフィス)の親子は、ロサンゼルス近郊で二人、慎ましく暮らしていた。クリスティンの夫は、彼女に子供ができたとわかった時点で蒸発し、クリスティンは息子のウォルターを女手一つで育てていた。電信所でバリバリ働くクリスティンは、今でいうシングルマザーでありキャリアウーマンである。彼女にとってウォルターは生きる糧であり、彼女のすべてだった。

そのウォルターが、ある日突然姿を消す。
彼女は警察に訴えるものの、「子供の失踪は24時間以内は探さない。」と冷たい対応で取りあわない。彼女はウォルターを必死に探すものの、見つからない。あせりと動揺の中、警察から一つの連絡が仕事中の彼女のもとに入る。

「ウォルター君が見つかりました。」

マスコミが「母と子の感動の再会」というスクープを狙う駅のホームで、息子が乗っているという汽車を待つクリスティン。喜びと驚きの混ざった感情で待つ彼女の前に降り立つ一人の少年。その少年を見て、クリスティンは呆然と立ちすくむ。その少年は、ウォルターと似ても似つかなかい別人だったのだ。しかし、自分たちの成果を高らかに宣伝したいロス市警は、人違いであるという彼女の訴えを聞こうとはしない。1928年は世界恐慌の前年にあたり、ロサンゼルスでも犯罪は増加し、ロス市警は腐敗しきっており市民の信頼は皆無に等しかった。このような状況で、人違いという決定的なミスはロス市警の信頼をさらに貶める結果になるため、彼らがそれを認めることはあり得なかった。

それでも訴え続けるクリスティンの行動を、ロス市警は考えられないような方法で封じる。彼女が精神的に不安定であるという事実をでっちあげ、精神病院へと送致してしまうのである。「ウォルターを見つける」という彼女の最終目標は、ロス市警という権力によってあっさりと抹殺されてしまう。それでもクリスティンはあきらめることなく、最後まで自分の意思を貫き、戦い続けるのだ。この映画でイーストウッドが描きたかったことは、「集団」の意思ではなく「個人」の意思こそがもっとも重要であり、自らの意思を貫き通すことがもっとも尊く気高いものである、ということだと思う。

ここでいう「集団」とは、いうまでもなくロス市警のことである。彼らは自分達の保身の為にクリスティンを利用し、彼女の存在が彼らにとって不都合なものになれば、彼らは権力を用いて彼女を排除しようとする。しかし警察だけがこの映画で描かれる「集団」ではない。この作品で描かれるもう一つの「集団」とは、グスタブ(ジョン・マルコヴィッチ)率いるキリスト教会である。彼らはクリスティンの味方であり、彼らによって彼女はある意味救われるのだが、彼女は教会との距離を一定に保ち、過度に近づこうとはしない。キリスト教会にとっても、彼女に近づくのはそれが警察との戦いを有利に進めるためであり、彼女のことを100%考えての行動ではない。

警察によって派遣されてきた精神科医と、キリスト教会の人間たちがクリスティンの家に訪れる際の演出が類似していることからわかるように、彼らは自分達の都合のよい事実をクリスティンに強要しようとする点において、本質的に同質な存在なのだ。だから、彼女はそのどちらもが押し付けてくる「事実」を屹然と否定する。彼女は外の環境がどんなに変化しようと、一貫した信念を貫き通すのだ。その信念とは、「息子は生きているし、必ず見つけ出す」ということだ。その為なら手段は問わないし、どんな「集団」だろうと立ち向かう。*1

また、確かにロス市警は徹底して「悪」として描かれているのだが、ジョーンズ警部(ジェフリー・ドノヴァン)がクリスティンの意見を却下し、警察署を無理やり追い出すまさにその時、カメラはクリスティンを追うジェフリー警部の視線を捉え続ける。それによって、警察組織という「集団」内部に属する「個人」の苦しみさえ表現しているのだ。イーストウッド監督の神がかったバランス感覚によって、安易な勧善懲悪ものに落とし込まれがちな題材が、深みを持った名作へと昇華させられている。「集団」の意思は容易に「個人」の意思をゆがめてしまうことがある。しかしだからこそ、「個人」はその意思を強固に保ち、貫かなければならないのだ。

戦い続けることによって勝ち取ったかすかな希望を胸に抱いて、クリスティンは多くの人々が行き交う街中に消えていく。絶望に等しく思えるような、わずかな希望と共に去って行く姿は高貴であり、それと同時に物悲しい。安易なカタルシスが顕然と否定されたこの作品は、いつまでも心の奥底に重たい何かを感じさせ続ける圧倒的な作品だった。

*1: 勿論、基本的に警察が「悪」、教会が「正義」として描かれているのは言うまでもないが。